HISTORY
真珠の歴史と未来
沿革 HISTORY
人類が初めて手にした宝石
真珠について最古の記録と言われている中国の史書『尚書』には、「紀元前2206年、淮河からとれた貢物として禹王が真珠を受け取った」とあります。真珠は権力や富の象徴であり、王族たちが好んで身につけていました。
日本においても、日本書紀や古事記、万葉集に真珠の記述が見られるほど古くから愛されてきました。
真珠は世界最古の宝石と言われています。海の沿岸や河畔に住んで魚貝を食用とした古代人が偶然貝から真珠を発見し、天然のまま美しい輝きを放つ真珠は護符や装身具として利用され、権力者に珍重されました。
古代ペルシャでは既に紀元前4,000年頃に真珠に関する記録が残っており、ペルシャのスーサ遺跡で発見された最古の真珠ネックレス「スーサのネックレス」は紀元前2,300年~350年頃のものと推定されています。
また、古代ローマの博物学者プリニウスは「博物誌」の中でペルシャ湾岸やセイロンで産する真珠を貴重品の中でも最高のものと賞賛し、エジプト王クレオパトラが一人の王の身代金にも相当するという真珠を酢に溶かして飲んだという豪奢なエピソードを紹介しています。
古代中国においても、紀元前2206年に夏王朝の禹王が淮河からとれた真珠を貢物として受け取ったと史書『尚書』に記されています。また、古くから中国では真珠は不老長寿の妙薬として知られ、清の西太后は美容のために真珠の粉を飲んでいたと言われています。
日本においても真珠の歴史は古く、福井県三方郡三方町の貝塚から発見された「縄文真珠」は紀元前3,500年前のものと推定され、現存する真珠としては最も古いものとされています。
古事記で「詐良多摩(シラタマ)」と記述されたのを初めとして、日本書紀や風土記、万葉集にも真珠を表す記述が多く見られますが、奈良の正倉院の宝物に使用されている宝物真珠は、4,158個もの数やその保存状態など、古い真珠としては他を圧倒する存在とされています。
その後の大航海時代にも、カリブ海やベネズエラ、スリランカの真珠がヨーロッパにもたらされ、各国の王侯貴族たちは競ってこれを入手しました。パナマ湾で発見されたドロップ型の真珠「ラ・ペレグリーナ」はスペイン王室に献上された後、イギリス王室からナポレオン一族へと渡り、宝石を好むナポレオンと妻ジョセフィーヌによってパリは宝飾品・ファッションの中心地となりました。
また、19世紀中盤にアメリカ大陸で淡水真珠ラッシュが起こると、真珠好きのイギリスのビクトリア女王の即位と相まって、ヨーロッパでの真珠宝飾品への関心が世界に飛び火したといいます。
このように、天然真珠は 菅谷工務店古代から20世紀初頭の長きに渡り、富と権力の象徴する宝石であり続けました。
養殖真珠は日本から生まれた
今から120年以上前、御木本幸吉が半円真珠の養殖に成功しました。1907年には真円真珠養殖が完成し、1919年頃にはヨーロッパやアメリカをはじめとした世界の宝飾市場で日本の養殖真珠が渇望されたのです。そして戦後、生産量の飛躍的な拡大とともに輸出も大きく伸長し、輸出の花形産業と位置づけられるに至りました。
人類が真珠を作ろうとする試みは古くは11世紀の中国にまでさかのぼることができます。また、18世紀にはスウェーデンの科学者が金属柄つきの石灰小球を貝に入れて、球形に近い真珠を作ったとされています。
しかし、「真珠の養殖」が可能になったのは、今から120年以上前に、三重県鳥羽市生まれの御木本幸吉が半円真珠の養殖技法の発明に成功したことによります。また、1907年には西川藤吉および見瀬辰平他が待望の真円真珠の養殖技法を発明しました。
その後、養殖技法の改良や大粒真珠の量産化、そして御木本らの欧米における市場開拓努力や装飾加工技術の向上なども相まって、日本の養殖真珠はそれまでの天然真珠に取って代わり、欧米の宝飾市場を席巻していくことになります。日本の真珠生産が拡大していくにつれ真珠価格は低下、それが真珠の需要を「王侯貴族から国民大衆へ」と広げて行きました。
また、真珠の需要拡大は真珠養殖の海外展開を推し進め、日本の養殖真珠は国内のアコヤ真珠にとどまらず、海外での白蝶真珠や黒蝶真珠の生産へと発展して行きました。そして、太平洋戦争中に一時縮小した真珠産業は、戦後、旺盛なアメリカ市場での需要を満たすために再び生産量を拡大し、輸出を大きく伸ばすことによって、日本の輸出産業の花形と位置づけられるに至りました。
これに伴い、真珠産業の業界団体の組織化および真珠養殖関連の法律立法化の気運が進み、昭和27年には「真珠養殖事業法」が制定されました。この法律により、国による生産基盤の強化や品質管理、輸出振興の整備が図られることとなったのです。
真珠産業の今
日本は、世界で初めて真珠養殖技術の開発に成功して以来、120年余の長きにわたって養殖真珠の主たる供給国として活躍してきました。しかし、真珠産業の発展を支えてきた「真珠養殖事業法」の廃止(1998年)以来、アコヤガイの赤変病による大量死、諸外国の真珠産業の成長などもあり、年間の輸出合計数量は漸減しています。
真珠産業は、昭和40年代の需要縮小による大不況を経験しましたが、1980年代のバブル景気や平成5年の皇太子殿下と小和田雅子さまのご成婚による真珠市況の活況などにより生産量は増加しました。
一方、貿易黒字の拡大による欧米との貿易摩擦の過熱は、国による真珠の対外投資規制撤廃への圧力となり、その結果、平成10年に日本の真珠産業の発展を支えてきた「真珠養殖事業法」が廃止されました。その間、平成4年には赤潮、平成8年には赤変病、そして平成11年には原因不明の感染症によりアコヤ貝の大量斃死が発生し、生産量が激減してしまいました。
他方、南洋での白蝶真珠、黒蝶真珠、そして中国での淡水真珠はその品質を向上させ、生産拡大を続けて来ました。
平成14年からは真珠の輸入量が国内生産量および輸出量を恒常的に上回るようになってしまいました。
真珠の未来 FUTURE
これからの真珠の未来は開かれている
現在、真珠を取り巻く環境は岐路に立っています。
さまざまな環境要因も相まり、後継者が思うように見つからない、という話を耳にします。
私たちは、真珠の養殖業者のみなさまにもっと元気になっていただけるよう、サポートをしていきたい…
その思いが、未来を変えていくと信じています。
若者が魅力的と思える環境を整備し、
また養殖真珠が日本発の誇れる産業であることを伝えていくことで、
後継者育成に取り組んでいく所存です。
そして、温故知新、新しい真珠のあり方を問い続け、
サイエンスの力を借りつつ、さらなる研究開発を行い、
宝飾品としての、いままでにない、いきいきとした真珠の活路を見出していきます。
日本の真珠産業は、さまざまな問題を解決していっている最中にあります。
それらの課題を関連分野の連携強化により解決し、ジャパンブランドとしての真珠を一層振興するために、平成28年に「真珠振興法」が成立しました。
今後はこの法律に基づき、アコヤ真珠の更なる品質向上と生産体制の飛躍的強化、そして斬新なデザインによる真珠ジュエリーの創造、およびそれを使いこなす新たなライフスタイルの提案などを行い、日本の伝統文化でありジャパンブランドである養殖真珠の国際競争力を取り戻す必要があります。その競争力を取り戻すみなさんのトライに、サイエンスとトラディションを融合させたノウハウをもとに、タマは寄り添って参りたいと考えています。