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西洋美術史から見た真珠 – 第2回 女王の真珠

2017.11.22

イングランドの王ヘンリー8世(在位:1509~47年)は、王妃キャサリンとの結婚で娘しか生まれなかったため、テューダー朝の継続と国家の基盤をより確かなものにするため男児の王位継承者を望みました。 そのため、離婚を禁じるカトリック教会から王妃との結婚を無効にし、結婚解消の許可を得ようとします。キリスト教社会のヨーロッパでは、王の愛人が産んだ男子は認知されて爵位も与えられてはしても、妾腹では王位継承が認められないからです。 王は女官アン・ブーリンと正式に結婚して王子誕生を願ったのですが、キャサリン王妃がスペイン王の叔母にあたるため、カトリックの庇護者スペインとの国際関係を考慮しローマ教皇がその願い出を却下します。 その結果、1534年にヘンリー8世はローマ教皇庁と絶縁し、「国王至上法」を発布し国家元首が教会の長を兼ねる英国国教会が成立したのです。ヘンリー8世自身はローマ教皇とは絶縁したもののカトリック信仰を生涯守りましたが、英国国教会成立の余波はイングランド国内におけるプロテスタント運動を活性化させます。 そのため、娘のエリザベス1世(在位:1558~1603年)が英国国教会の改革を図りました。女王はカトリックとプロテスタントの融合を図り、教義的にはプロテスタントであり、あくまでも国家元首が教会の主権者でありながら、礼拝様式などはカトリック的な中道路線が取ったのです。 王女時代のエリザベスは、プロテスタントらしく王族としては華美ではなく、控えめな印象を与えるドレスを着ています。手には新約聖書を持ち、背景には旧約聖書が描かれているように、王女時代は外見よりの内面性が表れた肖像画を好みました。真珠が縫い込まれた髪飾りやドレス、そしてネックレスからも真珠が象徴する純潔性が強調されています。 25歳で女王に即位してからは、その立場に相応しい装いを徹するようになりました。当時の君主は国民に畏怖を持って崇められることが大事だったため、豪華な衣装や儀式によって絶対的な君主としてカリスマを維持する必要がありました。 そのうえ、宗教問題で分裂した国民を一体化するためには偶像が必要でした。プロテスタント化されたイングランドでは、聖母マリアではなく女王を偶像化し女王崇敬によって国をまとめる必要があったのです。 エリザベス1世は、その神格化のために肖像画の威力を利用し、女王の肖像画が多く制作されました。シンボリズムを駆使したものが多いのは、その神格化におけるメッセージを含ませるためでした。 「ペリカン・ポートレイト」にあるペリカンのブローチは、ペリカン自体がキリストの受難と聖餐の象徴なため、女王の国民のための自己犠牲を象徴し、女王が英国国教会の母であることを表しています。手にする手袋も、国民の庇護者を意味します。 晩年の女王を描いた「虹の肖像」も、「NON SINE SOLE IRIS(太陽無くして虹もなし)」と記されているように、女王自身が太陽であることを表しているのです。 しかし、何といっても生涯を渡ってエリザベス1世の肖像画で際立っているのが豪華な真珠の存在です。美と完全、そして処女性を象徴する真珠を大変好んだ女王は、ネックレスも髪飾りもそして衣装にも真珠がふんだんに使われました。 「ディッチリー・ポートレイト」は家臣のカントリー・ハウスを訪れた記念に描かれたものですが、行幸の際には真珠を縫い付けるだけの使用人も同行していたほどでした。 ちなみに、女王の行幸は国民に自分の姿を見せるという目的もありましたが、同時に莫大な宮廷の経費を家臣や裕福な階層の国民に負担させるという算段もあったのです。 豪奢で威厳のある肖像画のイメージに反し、吝嗇だった女王は自分の衣装を何度もリフォームして着用しています。真珠をはじめとする宝石類も、ほとんどが自分の一族の遺品や臣下からの贈り物であり、女王自らが節約に努めていたのでした。